ケーキハウス・ツマガリ:甲陽園のお菓子工房

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ツマガリ社長について

講演内容

オンリーワンを目指して-こだわりの経営戦略-「キーワードは人間味〜小さなお店の大きなブランド戦略」神戸市産業振興財団主催講演会より

この講演録は、2001年2月に神戸市産業振興財団の主催によって行われた講演会での内容を要約したものです。

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体力勝負の日々

ツマガリのケーキ

お菓子屋のお話をする前に、多少、自分の人生観をお話しないといけませんので、僕がお菓子屋になった動機を少しお話します。
僕は南九州の都井岬のもっと南で生まれました。今でこそ風光明媚で素晴らしいと言われますが、昔は寒村と言われ村全部が貧しい、そんなところで育ちました。家庭環境が非常に悪くて、早く社会に出て家族に仕送りをしなければいけないという使命を与えられていたんです。すでに両親はいなかったので、うちの婆さんに聞くと、僕には鉄道員になって機関車に乗ったり、修理の仕事をさせたかったようです。
学校の先生にどこか就職先はないかと相談して、東京のある運送会社の荷役仕事が、社会に出て初めての仕事になりました。24トンのトラックに荷物を積み込む仕事で、1年間やりました。

ものすごく良かったのは、1年間身体を鍛えてもらったことです。人生の試練を神様が与えて下さったんだなと、いま思えば感謝しています。仕事に就くことができましたが、下請けの下請けの下請けの荷役仕事だったもんで、米びつのご飯を空っぽになるまで食べました。九州なもんですから、その時はじめて納豆を食べました。糸を引く納豆を初めて食べて、何を食べさすのかと思ったんですが、お腹が空いてるから何でも食べました。

そうやって1年間たって、お陰さまでパワーが付いたんですが、毎日毎日荷物を運んでいるうちに疑問に思ってきました。

それで「何かいい仕事はないかな」と、その次に入れてもらったのが自動車の修理工です。相談相手がトラックの運転手しかいなかったのでね、赤羽の板金工場だったんです。 でも、困ったことに全然言葉が通じなくて、理解ができないんです。僕は九州の訛りがきついんですが、東北の人達は東北弁を喋るもんでね。ズーズー弁と九州弁ですから。それでこの人たちと一緒に仕事をするのは大変だなと思って、16歳のときに友達のお母さんが働いていた泉佐野の紡績会社に頼んで入れてもらったんです。

そこでも荷物運びです。中学校を半分しか行ってないもんだから、漢字を知らんのです。だから字を書くことが苦手で、何にも分かってないんです。知らないということは恐いことですよね。でも頭を使う才能もないもんですから、体力だけの仕事しかできないんです。トラックから運んだ綿を機械に放り込む仕事をやりました。倉庫みたいなところで冷房もなくて、夏は40度ぐらいあって本当に暑いんです。昼の1時から明くる朝の5時まで仕事をしました。

考えてみると、お菓子屋と全然関係がないようですが、関係があるんです。人間は、頭ばっかりが良くても、落ち込んだときはだめです。私は、体力は人の5倍ぐらいありますから、少々のことは平気です。オリンピックに行っても負けるのは体力がないからです。パワーがないんです。人をやり込む、投げ込む、打ち込む、酒でも3升ぐらい飲み込むパワー、なんでもやっつけるパワーがないんですよ。それが足らないとだめだということが勉強になったんです。

お菓子屋さんへ

僕はこの店(ツマガリ本店)をつくるときに、夢があったんです。人にできん難しいという「しにくい」やつ、「できない」とか、「売りにくい」「やりにくい」「しにくい店」。これをやりたかったんです。

17坪の店ですが、この店の経営で儲けるよりも300人養ったろうかと、今は230人ぐらいですが、一応この店で7億円です。1店舗では銀座の和光さんに負けないぐらいで日本一やと思ってます。経営コンサルタントの話になると坪効率だとか言いますが、坪効率などありえないと思っています。その人の脳味噌の効率はあっても、坪効率はないと思うんですね。

その話は一旦置いといて、17歳のときに友達が「お菓子屋にならんか、洋菓子屋に」と言われて。洋菓子というのはわからんから断ったんです。

シュークリームも食べたことがない、デコレーションも見たことがない。田舎から出てきたもんですから、下駄履きの田舎ですから、駄菓子の兵六餅しか知らないんです。かるかんのような鹿児島のふくれ菓子しか食べたことがないから断ったんです。でも明るくて、元気がよくて、単純で、面白くて、はしゃぐから、それで僕を呼びに来たんです。

「堪忍してください」と言ってたんです。それにフランス語を千語以上知ってなければいけないと脅かすんですから。日本語の漢字もろくに知らない、まだ共通弁が喋れないときですから。僕は困ったんですが、先輩が無理やり渋谷に連れていって。渋谷の高架下で、これから面接に行くわけやから髪を整えてと、10分でバリカンで頭を羊みたいに裸にされて、それで面接に行ったんです。元気だけはよかったもんですから、直ぐに採用されて入れてもらったんです。

それも運がよかった。最初に頭を使わない仕事で身体を鍛える仕事をやって、その次にお菓子屋さん。それも日本洋菓子連合会の会長さんのお店(ヒサモト洋菓子店)ですから、日本全国から素晴らしい人達が、と言うかぼんぼん達が勉強に来ている。そこに毛並みの全然違う私がヒョコッと来た。菓子屋の「か」の字も知らん奴が。

よろしくお願いしますと服を着て入ったら、最初は追い回しの仕事。「あれ取って来い」「これ取って来い」と言って、仕事の段取りは少しも教えてもらえないんです。「ゴムへら持ってこい」と言われても、それが何なのか知らないんで、「そこの、それや」と言うんですが、わからずに手渡すと、「この馬鹿たれ」と言われる。次に「おたま持って来い」と言われて、僕も困り果ててしまいました。

それで手帳に「ゴムヘら」「おたま」と一つずつ絵を描いてメモしていきました。すると意地悪な奴がいて、その手帳を取り上げて笑うわけですよ。皆はすでに技術を学んでいるわけですから。でも頭でっかちなんです。僕の息子も頭でっかちで、フランスの学校にも行き、どこそこに行き、いざ鼻血が出るような仕事をしたら、「でさない」とか「苦しい」とか言うんです。

僕は体力だけは鍛えていますから、遮二無二やるだけです。体力だけはあるわけですから、どんな仕事でも平気。するとまた意地悪な奴がおって、大糖という砂糖があって、地べたに並べてるんです。一袋が30キロあるものを3袋担いで来いと言われて。何とか担いで工場の中をウロウロして下ろす。身体中がガタガタして、手が震えましたが、体力だけはありました。鉄板もって来いと言われたら持っていく。鉄板を磨けと言われたら、ゴシゴシ、ゴシゴシ磨いて。お陰さんで、ボクシングのチャンピオンになるぐらい磨きました。ジャブ、ジャブ、ジャブと繰り返すうちに、お陰でハードパンチャーになりました。菓子屋になるよりもボクサーになった方がお金になるかも知れんと、毎日10キロ走ってボクシングをやりました。ファイティング原田の時代ですから、身体を鍛えて一旗上げてやろうと思ったこともありました。しかし、世の中には凄い奴がいて、運動神経がよくて、そいつに半殺しの目にあってやめました。

ボクシングのチャンピオンになってもなかなか長続きはしませんが、菓子屋は70歳になってもやれますから。お菓子屋を紹介してくれたその先輩に感謝しています。

その先輩が独立して、「俺が失敗するかも知れんから、しっかりと覚えときなさい」と言われたんですが、その先輩は2回失敗した。なんで、ポロクソに言われた僕が成功したのかな。振り返ると、技術があるだけではだめなんです。

両親がいなかったから婆さんに言われたんです。オナゴを大事にしなさい。その次にヒトを大事にしなさい。もう一つは一生懸命仕事をしろ、と。3つの教えを受けたんです。ですから、ヒサモト洋菓子店に入社するときに、一つの仕事が片づいたら「次は何をやったらよろしいでしょうか」と言えと教わった。それ以外は何にも言わなくてもいい。そしたら次々と仕事がまわってくるからと。

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