ケーキハウス・ツマガリ:甲陽園のお菓子工房

  • カタログご請求
  • メインコンテンツにジャンプする

ツマガリ社長について

講演内容

「最後は品質〜ツマガリ、こだわりの経営戦略」国民生活金融公庫 調査月報5月号より

兵庫県西宮市の住宅街に立地する「ケーキハウスツマガリ」は各種のメディアで「行列のできる洋菓子店」として紹介され、県外からも数多くのファンが訪れる。地元を中心とした店舗展開(支店は神戸市と大阪市にある3店舗)にもかかわらず、全国の消費者から支持されている背景には、津曲社長の徹底した品質へのこだわりがあった。

1/2 続きを読む

故郷の自然と祖母の教えが経営の原点

講演するツマガリ社長

私は商売をするうえで最後に生き残るのは、「本当に真心のこもった商品」であると考えています。私の場合その商品は、お菓子ですから、お客さまが本当に喜んでくださるようなお菓子を、毎日毎日作ることが最も大切だと考えています。そのために、これまで実践してきたことはたくさんありますが、現在の私に経営の影響を与えているのは、子供のころの生活体験と祖母の教えです。

私が育ったのは宮崎県南の串間(くしま)というところです。小さな村でしたが、豊かな自然がありました。海では岩場で捕れる貝や小魚が、山では柿や山芋が育ち盛りの空腹を満たしてくれました。自然の塩味、甘味はどんな調味料にもかないません。この時の感動が、現在の素材へのこだわりにつながっているのだと思います。とはいえ、村での生活は楽ではありませんでした。両親は私が15歳のときにはすでにおらず、兄弟4人を育ててくれたのは、ほとんど収入のない年老いた祖母だったのです。苦しい生活でしたが祖母からは、人間としての誇りをもち、どんなことにも負けないことが大事だと教えられました。

中学卒業後、集団就職で上京する際も、祖母に「どんな仕事でも、入った先で一生懸命仕事せい、行った先で人に好かれろ」と言われたのを今でも覚えています。初めての仕事は、お菓子とまったく縁のないものでした。小さな運送会社で、毎日何十トンもの荷物を運ぶのです。1週間で足の指全部にまめができるほどでしたが、田舎にいる弟たちに仕送りをするため必死でした。1年後に移った大阪の紡績会社でもやはり荷物運びで、早朝から深夜まで働きっぱなし。立ったまま居眠りをしてしまうほど、肉体的にも精神的にも極限の状態でしたが、負けなかった。祖母の「一生懸命仕事せい」という言葉があったからです。そして、このときに自然と身に付いた強い体力と精神力は、その後、菓子職人として徹夜での商品作りに取り組んだり、経営者として会社を運営したりするうえで大きな力になっています。

洋菓子との出会いは17歳のときです。最初に働いた運送会社の先輩が、「お菓子屋さんにならんか」と声をかけてくれたのです。でも、洋菓子職人になるには、フランス単語を1,000ぐらい知らないと駄目らしい。「僕は九州弁しか知らんし、無理です」と断ったのです。ところが、運命というか神様の仕業か、何度も断ったのに、東京からわざわざきてくれまして、「とにかく一緒に働きたい」と、半ば無理やりに東京の有名なお菓子屋さんに連れていってくれたのです。祖母の教えどおり一生懸命働いたことで、職場の先輩に気に入られ、それがその後の私の運命を大きく変えてくれたのだと感謝しています。

体で覚えた知識と技術

「いい目をしとる。まあ4,5年修行しなさい」。製造部長にこう言われ、菓子職人の修行が始まりました。仕事への不安はあったのですが仕事場を見て、まずうれしかった。
右も左も食べ物ばかりですから。冷蔵庫にはバナナ、冷凍庫にはアイスクリーム、食べたこともない食材だらけです。仕事場での食事でも、「うまい、うまい」と腹一杯食べる。よほどうれしそうに映ったのでしょうか、いじめられることはなく、むしろ、みんなからかわいがられたのです。このとき思ったのですが「人間、やっぱりかわいげがあって、素直で一生懸命仕事する人間が、うまくいくのです。
東京での修行後、兵庫県のエーデルワイスという洋菓子工場に移りました。22歳のときです。ここでも人生の転機が訪れました。洋菓子コンテストで賞を頂くなど、お菓子作りの面白さを実感していたころですが、会社から「スイスでお菓子の勉強をしてこい」と言われたのです。会社をあげての壮行会では「成果を期待している」「味を覚えてこい」と言われて送りだされたものの、いったいどんな店で修行するのかさえ、」わかっていませんでした。

修行先が世界で3本の指に入る店だと知ったのは、現地に着いてからでした。当時、私はスイスではスイス語を使うのだと思っていたくらいですし、九州弁しか話せないから、とにかく言葉がわからない。最初に苦労したのは食べ物屋です。メニューはすべてドイツ語です。初めは、カッコつけて「サラミ」と「チーズ」を頼んだら、大皿に山盛りのサラミと、メロンのように割った真ん丸いチーズが出てきてしまった。

こうなると、2回目からは度胸を決めて日本語で通すしかない。あとはジェスチャーです。牛肉だったら、牛のまねをする。「モウー」「ミルク、ミルク」と身振り手振りでね。すると店のお客さんたちがジロッと見て笑うわけですよ。でもこっちは真剣ですから、鶏肉が食べたければ「コケコッコー、クワクワクワッ」。あとは「これを食べたいから、持ってこい」と日本語でね。

こんな生活で度胸がついたといいますか、言葉がわからなくても真剣に伝えようとすれば相手に通じるという自信がつき、修行先のお菓子の味を全部覚えてやろうとどん欲なまでに行動するようになりました。

例えば、材料です。世界的なお店ですから、製菓材料も最高級品です。その味を覚えないといけない。そこで休憩時間の30分、コミ捨て場に行って、捨ててあるラベルを全部はがし、それらをスクラップしてとっておくことにしました。将来きっとこんな材料を日本でも使うようになると思ったからです。今は日本でも良質の製菓材料が入っていますが、私のように、初めて外国で学んだ方々の苦労があったからだと思います。

材料の配合も覚えなければいけません。休み時間に配合をメモしようとしても、横文字ばかりで手が進まない。ある日、困り果ててチーフに「3日間だけ本を貸してくれんやろか。全部書き写したいので、命をかけてお願いします」と、土下座して借りたのです。ところが、夜に家で1ページ書いたらもう眠くなってしまう。そこで、向かいの宝石店に勤めていた日本人の女の子に頼んで、配合帳をコピーしてもらったのです。でも、人間というのはだめですね。コピーで簡単に手に入れたものでなく、必死で一つのお菓子を追求して手で書いたほうが身に付きました。当時、カメラは高価で持てませんから、目と舌を使って頭に記憶するんです。休みの日にはノートに絵を書いて、覚えたものをストックしていくのです。

あれから、27、8年ぐらいたっていますが、その時覚えたことは、昨日のことのように記憶に残っています。今でもそこから少しずつ少しずつかみくだしながら、商品のアイデアを出しているのです。

1/2 続きを読む

メインコンテンツに戻る